「大津波記念碑」
高き住居は児孫に和楽
明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て部落は全滅し、生存者、僅かに前に二人後に四人のみ。幾歳経るとも要心あれ
想へ惨禍の大津浪
此処より下に家を建てるな
メディアにて取り上げられる際には、この記念碑を中心に述べられる事が多い地域です。
東日本大震災では、姉吉地区にてどのような津波被害があったのかに触れられることが実は少ないというのが実態です。
義援バルーン空撮では、空撮を交えながら、漁港と集落の位置関係。
実際に津波が到達した高さを解説するために、この場所を訪れました。
田老地区の空撮を終えて姉吉地区に入った頃には、バルーン空撮には不向きな強風が吹き始めていました。
姉吉地区の独特の地形を解説する為にも空撮を行いところだったのですが、この日の撮影は断念することになりました。
姉吉地区に関しては、大津波記念碑と漁港と集落が対比できるような空撮を実施する予定です。